➀ 平成三年久保豊先生と佐々木信一さんから縄文へ
私は平成三年、久保豊先生に依頼された仕事で知り合った佐々木信一さんとのご縁で、青森県の縄文遺跡の勉強会を始めた。勉強会参加者は主に、古川記之さんと斎藤葵和子さんの呼びかけで集めた。
② 平成四年 縄文の会結成と野球場建設工事着工
平成四年四月、三内丸山で野球場建設工事が着工されていた。平成四年六月、朝日新聞青森支局長、加藤安彦さんの提案で勉強会の名称は「縄文の会」と定めた。
③ 平成五年 記録映画製作企画と製作活動へ
平成五年五月、「縄文の会」は青森県の縄文遺跡の記録映画製作を企画し、その実現に向けて行動を始めた。一方、三内丸山では前年着工された野球場建設工事が大量の縄文時代の遺物や遺構の出土で停滞していた。そこで工事進捗のため工事予算を流用して、約四万坪全面に数百人の調査員を張り付けて発掘調査をしていた。鈴木昭吾専務はその現場を視察されて、記録映画製作を決断して、直ちに行動を開始した。
④ 平成六年 縄文映画製作委員会結成と活動開始
平成六年三月、青森県商工会議所連合会の沼田吉蔵会長を会長に頂き、事務局は青森銀行に置いて、「縄文映画製作委員会」が発会、四月には現地で撮影を開始した。平成五年五月頃行動開始してから、わずか十ヶ月足らずの事でした。
⑤ 平成六年六月 遺跡のシンボルとなった六本柱の遺構出土
四万坪の遺跡は廃棄物で埋まった谷、毀れた土器類が層をなしている捨て場、大小の住居跡等、遺跡全面を一斉に多くのグループによって発掘調査されていた。飯塚監督一行は、そうしたそれぞれが全て貴重な価値ある出土品の発掘現場を担当者と質疑応答しながら、自由に移動して撮影対象を探索していた。そんな中、撮影開始して二ヶ月後の六月になって、 子供のお墓に隣接する場所で進む、六本柱の遺構には特に興味を引かれた。毎日観察していると、正確な間隙で(後に縄文尺と云われる35㎝)建てられて、長い年月の風雨と天変地異に耐えて立腐れした六本の巨木の遺構と判明した。
⑥ 平成六年六月 六本柱の遺構が「縄文の会」例会の話題に
縄文の会の例会で、飯塚監督が報告する六本柱の話は、「佐賀県の吉野ヶ里遺跡で出土した木柱との比較で盛り上がった。一方の「二千年前の直径四十㎝の木柱」に対して、「五千年前の直径1mの巨木」でその切出し、運搬移動、設置のいずれも格段に高い技術、 知恵が必要となる。尽きない疑問は議論するまでもなく、次の新聞報道で消えてしまった。
⑦ 平成六年七月 朝日新聞が六本柱の遺構を全国報道
平成六年七月一六日、朝日新聞が航空写真付きで、「北の吉野ヶ里遺跡の巨木」として報道した事で、三内丸山遺跡は全国的に大ブレークした。
平成三年から平成四年、平成五年、平成六年の出来事を一覧にまとめてみると、不思議な気がします。まるで平成六年七月の六本柱のマスコミによる大報道で野球場建設工事は中止となり、遺跡が保存された事は、私が平成三年から縄文遺跡に関して活動する前に既に決定されていた様な感に打たれます。
